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ヴィニーズワルツとは

The History Of Viennese Waltz

社交ダンスには、「ワルツ」と「ヴィニーズ・ワルツ」と呼ばれるふたつのワルツがあります。ワルツは、1910年ごろに欧米で流行した「ボストン・ワルツ」と呼ばれていたもので、その歴史は100年ほどと比較的新しいダンスです。一方、ヴィニーズ・ワルツはアルプス地方に伝わる民族舞踏「レントラー」が、宮廷舞踏として取り入れられる際にワルツと呼ばれるようになり発展したもので、その始まりは1750年ごろと言われています。

この宮廷舞踏がヨーロッパに広まることに、政治上、重大なある会議が大きな役割を果たしたと言われています。それは1814年に開かれたウィーン会議。ナポレオン戦争の終結に伴う戦後処理のため、ヨーロッパ各国の国王、皇帝らが一堂に会しました。このとき頻繁に舞踏晩餐会が催されました。当時、ヨーロッパの舞踏会は、メヌエットが主流で手と手をとって踊ることには慣れていましたが、正面に向かい合い、両腕を組み、密接な状態で踊るワルツは斬新で、男女が抱き合って踊るロマンチックなダンスに各国の要人たちは魅せられてしまいます。その心酔ぶりは相当なもので、名画『会議は踊る』にも描かれているように、会議をおろそかにして踊っていたという逸話が残るほどでした。このワルツが「ウィンナー・ワルツ(ドイツ語)」と呼ばれ、会議終了後、国に戻った要人たちは自国の宮廷にウィンナー・ワルツをもたらします。

宮廷の音楽責任者の地位についたヨハン・シュトラウス1世は、当時まだ卑猥なものとして蔑視されることのあったウィンナー・ワルツを美しく芸術的なものという評価にまで押しあげました。その後、子シュトラウス2世がその芸術性を市民に伝えます。『美しく青きドナウ』をはじめウィンナー・ワルツの名曲を次々と発表しワルツの全盛期を迎えます。シュトラウス父子の功績もあってウィンナー・ワルツは20世紀初頭まで舞踏会の主役として君臨し続けます。やがてアメリカから渡ってきた難しい技術を必要としないボストン・ワルツの登場で衰退していきます。

ダンス競技会が盛り上がり始めると種目のひとつとして取り上げられ、5種目めの「ヴィニーズ・ワルツ(英語)」として定着していくことになります。ワルツ王、ヨハン・シュトラウス2世が、心から愛したウィンナー・ワルツは、当時、宮廷で踊られていたままのスタイルで今もなお多くの人々に踊られています。

音楽と代表曲

音楽の拍子記号は3/4で1小節は3拍から構成されています。「強拍、弱拍、弱拍」のリズムで

123 223 323 423 ・・・

とカウントします。競技会などでは3拍が等分の曲が多いですが、コンサートなどでは、2拍目をやや早めにずらすように演奏されるヴィニーズワルツ独特のリズムを聴くことができます。

代表曲:『美しき青きドナウ』 『The Second Waltz』 『花のワルツ』

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